Aクラスと暮らす ほぼ毎日書けない日記 |
Tidy & Cozy |
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A story of A |
2001年5月24日 |
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息子の熱がやっと下がった。 下がった途端に元気を取り戻し、少しは食欲が出てきた様だ。だが「病院食」しかも大人向きのメニューでは、あまり食べたい物がないらしい。そこで「何か欲食べたい物は?」と聞くと「ポテト」と答えた。やっと、まともな食欲が出てきた証拠だ、しかも「L」だった。それで、昼休みに近くのマクドナルドまでポテトを買いに行った。 実は、私も18歳の時、肺炎で入院した事がある。何日も高熱が続き、食欲が落ちて何も食べたく無くなったのを覚えている。その時、同じ様に母から「何か欲しい物は」と聞かれたとき..........「ラーメン」と答えた。 何故か無性にラーメンが食べたかったのだ。だが入院中の身、外に食べに行く事は出来ず、出前も頼めない。と言うか近所にはそんなラーメン屋は無かったのだ。だが「何処かにあるかも知れない」と母は病院を出て行った。 それから間もなくして母はどんぶりに入ったラーメンを持って帰って来た。何でも「入院中の息子に食べさせたい」と無理を言って持って帰ったそうだ(そこは出前をしていなかった)。 久しぶりに食べるラーメンは美味しかった。その後、退院までに何回かそのラーメンを食べたが、そこが何処にあるラーメン屋なのかは知らなかった。だが、そのラーメンをきっかけに食欲が湧き、元気になったのを覚えている。 それから、10数年経った頃、私はある国家試験の受験資格を得る為の講習会に通っていた。その日は、あの肺炎で入院していた病院の施設内で行われていた。昼休、友人何人かで食事に出かけて行った時、私はある食堂に入って何気なくラーメンを注文した(好きだねーラーメン)。 その時食べたラーメンは、紛れもなく「あの入院中に食べたラーメン」の味だったのだ............。 |
あの時、その病院に入院したのは、当時私の姉がそこで「看護婦」として勤務していたからだ。(その病院と言うのは、先日ビザ発給でもめた台湾のお偉いさんが治療に来た病院)。 実は、私の祖母もまた「看護婦」だった。 その昔、祖母の勤めていた病院がある夜火事に遭い、大変な騒ぎになったそうだ。男手が足りない所に駆けつけた、見知らぬ青年が祖父だったと言うロマンスの話は母親から何度も聞かされた(^^;)。そして今、姉の子供が今年から看護婦の大学へ通っている。なんか昔TVであった「ルーツ」の様な話。 PS : 私の子供達は二人とも退院しました。そして、今日から学校へ行きました。何だか嵐のように過ぎ去った二週間だったな........。 |
2001年5月22日 |
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下の子の付き添いから帰ると、また息子と二人だけの夕食となった。 何だか妙に静かで落ち着かない。何時もだったら子供達がゲームの取り合いしたり、家の中で追いかけっこをして怒られていたりするのに、子供一人だと平穏だ。「一人っ子ってこんな感じかな?父子家庭ってこんな感じかな?」と思いながら夕食を済ませる。 だが、寝る前に再び熱を計ると「38.6℃」も上がっている。昼間は平熱だったが、こんなに上がっているとは。とりあえず、座薬を入れて寝かすことにした。「さて、困った」妻は下の子の付き添いで病院を離れるわけには行かない。そうなると私がこの子を連れて病院へ行くしか無いのだ。とりあえず、熱が下がる事を祈りつつ床についた。 翌朝、熱は下がらないどころか「39.8℃」にも上がっている。仕方ないので、子供をAに乗せて私の職場(病院)へ行く事にする。 病院へ着いて空いている点滴ベットへ寝かせ、朝一番で診察してもらう事にした。とりあえず、レントゲンを撮ってみたら、はっきりと肺炎だと解る。一応この子も「マイコかも知れない」と思ったが、どうも典型的マイコの写真とは違う様だ。 さて、どうしょう。この子を下の子と一緒に入院させるか、こちらで入院させるしか無い。だが、向こうの病院の主治医はどうも評判が良くないのだ。何だか知らないけど、みんなそう言うらしい。こう言う情報は子供を持つ母親達の間では、良い事も悪いこともあっと言う間に広まる。試しにうちの看護婦にも聞いてみたが、「えー!、あの先生なのー最悪」っと、やはり評判は良くない。 結局、上の子はこちらの病院へ入院させる事にした。妻もその方が楽だろうし、もう四年生なのだから仕事の合間に顔を見せる程度でも何とか一人で居られるだろう。それに私が何もしなくても病棟の看護婦達はさっさとベットを作り、息子を部屋まで連れて行ってくれた(しかもVIPルームだぞ)。 だが、座薬を入れると一時的に体温は下がるものの、6時間程度でまた上がり、夜中には40℃を越えていた。上がっては下がり、下がっては上がりを繰り返し、その都度着替えをさせて様子を見る事の繰り返しだ。 二日経ったが、経過は同じ、熱が下がると元気にしているが、上がると赤い顔をして「ふーふー」言っている。それに食欲もなさそうだ、好物の「マクドナルドのポテトを買ってきてやろうか」と言うと「いらない」と言うし、とりあえず持ってきた「ゲームボーイ」を触ろうともしない。やっぱり病気だ(あたりまえか)。 翌日、呼吸器専門外来だったので診察をする。どうも、この子もマイコプラズマ性肺炎の様だ。で、その日の午後から薬・点滴を替えると、熱が上がる時間が少し遅くなった、しかもピークは38度台だ。 翌朝、熱は下がったままだ。子供も元気な様子で一安心。この頃、朝7時には病院へ行き昼間は家へ帰って洗濯。夕方は下の子の病院へ行き、妻を連れてこちらの病院へ来る(向こうの病院には車をずっと置けない為)生活が続く。 5月17日は息子の10歳の誕生日。誕生日をまさか病院で迎えるとは、本人も親も想像しなかった。翌日、下の子の検査をしたが、まだ治りきっていない様子で、再び入院生活が続く。毎日があっと言う間に過ぎて行く、疲れているのは解るが妻も私もここで音を上げる訳にはいかない。何かしら一本の緊張の糸が張っている感じがした。 でも、この日仕事でちょっとしたミスをしてしまい、少しブルーになる。でも負けるわけには行かない。給油ランプが点いたので、帰りにガソリンを入れ、再び空気圧を目一杯入れる。家へ帰っても誰も居ない、一体何時になったら家族四人の生活に戻れるのか........つづく。 |
2001年5月21日 |
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それは、GW最後の日の事。 四月から小学二年生になった下の娘が、朝から「ゴホゴホ」と咳をしていた。「ちょっと風邪でも引いたかな?」そう言えば連休中は、色々と連れ回して「ちょっと遊ばせ過ぎた」と思っていた。夕方、体温計で熱を測ると「38.3℃」まで上がっていたので、その日は風邪薬を飲ませて早めに寝かせた。 翌朝、連休明けの月曜日。結局朝になっても熱が下がらないので学校を休ませて、近所の小児科医院へ行かせた。夕方、仕事から帰ると「ただの風邪だろうと言う事で三日分の薬をもらったそうだ」だが、熱は下がらず相変わらず「ゴホゴホ」と咳をしている。 次の日も熱は下がらず、そして水曜日。普通の風邪なら3日程度で熱は下がるが、夜になっても相変わらず38℃台の熱が出ている。朝から座薬を入れたが一向に熱は下がらない「この時期、インフルエンザではないと思うが、ただの風邪でもなさそうだ」と思い、妻と相談する。 本当は、最初の小児科医院へ連れて行けば良いが、最悪入院となると「日赤」へ送られるかも知れない。実は上の子供が幼稚園の頃、同じ様な経過で、肺炎を起こし日赤へ入院した事があったのだ。日赤だとちょっと遠く不便な事から、翌朝近くの総合病院へ連れて行く事にした。 最近は小児科が少ない。きちんとした小児科の入院施設となると数が限られる。私の職場も一応、病院なのだが、外科・整形外科が主だし、扱う薬の関係から連れてくる事には躊躇していた。餅は餅屋と言う訳だ。 木曜日、昼前妻から連絡があり、やはり「肺炎を起こして入院」になったそうだ。その病院は通勤途中にあるので、場所は便利な所にあるのだが、駐車場が狭いのと、国道へ出る道が何時も混んでいるので出入りがしにくいのが嫌だった。ま、嫌でもしょうがない事だが。 夕方、仕事帰りに寄ってみると、案の定駐車スペースが少ない。もし、無かったら玄関前に「どーん」と止めても「ベンツだから良いか(^^;)」なんて事も考えたが、結局「軽四」と書かれていた所に一台だけ空いていたので止めた。でも、ちゃんと白線内だ。 病室へ入ると四人部屋。私の勤務する病院に比べると狭いし汚い。完全看護でも無いので、これから妻がここで一緒に寝泊まりする事になる。「ま、3日ぐらいで退院出来るよ」と、その時は思っていた.......。 |
家族の誰かが入院すると言う事は、普段何気ない生活の中で色々な変化をもたらす。その日の夜から、上の息子と二人だけの生活となったが、もう四年生だから昼間は一人で留守番をさせる事にした。土曜日は、何時もの野球の練習へ行ったが、普段親の「勉強しなさい」とか「ゲームは止めて」とかの声が無い分、何だか気楽そうだ。 だが、土曜日の夕方から「ちょっと頭が痛い」と言い始めた。咳もなく風邪ではなさそうなので、その日は頭痛薬を飲ませて寝かした。翌朝、「何だか熱い」と言うので、体温を測ると38度台まで上がっていた。で、日曜日の野球の練習は休ませて、私が妻の代わりに下の子の付き添いをする事にした。 娘の熱は相変わらず下がらない、どうも普通の肺炎ではなくて「マイコプラズマ性肺炎」かも知れないと言う事で、前日から抗生物質の変更となった。持続点滴と薬。その薬はちょっと苦いので、飲ませるのに苦労する。 昼前、妻から電話があり息子の方は「もう熱は下がっているわよ」と連絡があった。上の子まで熱が出ると大変だから、一安心。同じ病室には、子供の同級生の妹と弟が入院していた。「子供が二人も入院すると、大変ですね」と、向こうのお父さんと話をしていたのだが........つづく。 |
2001年5月18日 |
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メルセデス・ケアの表示
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Aクラス購入1年未満の方はまだ見た事の無いと思いますが、「メルセデス・ケア」が近づくと、エンジン始動後、ちょっとして「スパナマークと数字」が出ます。それもちょっとの時間ですから、最初は見逃すかも知れませんし、「あれ?故障か?」と思うかも知れません。 そして、それは1日づつ減って行きます。 ケアまでの日数は、走行距離にも関係しますが、普通に乗っているとほぼ一年でやって来ます。最初のリセットは日本上陸後に行われる、と言う噂ですが本当の事は良く解りません。σ(^.^)の場合、何時もお昼過ぎに日数が変わります。 で、日数が0になってもケアに出さないと、爆発しま(せん)。時々「777」とラッキーナンバーが並ぶ事がありま(せん)。 |
2001年5月16日 |
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案ずるより生むが安し、と言う訳で「フレッツISDN」は難なく開通した。 一昨年、ISDNの申し込みをしたのはNifty経由だった。いわゆるNTT取次店からの申し込みと言う事になる。これは、「5000円分のJCBお買い物券」がプレゼントされるからだった(バックマージンはそれ以上あるのか?)。 だが今回、同様にフレッツISDNの申し込みをしょうとしたら金権は無く代わりに1000ポイント付くだけだった。しかも取次店から申し込むと、どうしても時間が余計に掛かる。で、今回はNTTのHPから直接申し込みをした。 すると翌日にはNTTから直接電話があった。「もしもし私、NTTの佐藤と申します」と、ものすごく物腰の低い白髪の老人らしき人の様だった(想像)。 「大丈夫か〜?」と思っていたが、申し込み時に書き込んだTAとか、プロバイダーとかの資料を見ながら「お宅様のお使いになっているTAは、TAのファームウェアとUSBドライバーのVr.アップが必要です」とか「プロバイダーアクセス時のIDの設定の仕方」それに「接続する電話番号」を教えてくれた。この辺りHP上にも書かれているし、その翌日には接続の為の冊子も届いていたので、簡単な事だが、とても親切丁寧だ。 「では、一週間後に工事予約を入れます」と言う、「もう少し早くはならないのか」と聞けば、それが最短だと。だが、「16日午前0時からですが、2〜3時間前から使えますよ」と教えてくれた。で、予定日時より、ちょっとだけ早く利用出来た訳だ。 |
Slipper
U (VS-10U) こんな出ました。モバイルデ−タ通信カ−ド専用USB変換アダプタ これでC@rdH“やP-inがノートでもディスクトップでも有効に使える。iBOOKにも最適!?
が、しかし「フレッツISDN」を申し込みをした翌日ポストに「CATVの契約&工事無料キャンペーン」の広告が入っていた。σ(^.^)の住むマンションは、昨年CATV対応の集合住宅となったので、設置工事は簡単に済む。しかも、無料となると食指は動く。 ただ、ADSLの方が速ければ料金的にはあまり変わりがない分、そちらを待つ手もある。キャンペーンは来月初旬、「あーどうしょう.....」。だが、そんな事にかまってはいられない事態が起こった.........この話は、また後日。 |
2001年5月15日 |
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..........つづき 「もしもし、修理に出されたPHSカードの件ですが.....」おー、待ってたぞ。そうか、やっぱり「こいつが悪さをしてた」だろう?だよな!?....「一応、サービスからは問題なしで帰って来ました」.......が〜ん!!(マンガだったら上から石が落ちてくる所ね)。 ち、違うのか?この一ヶ月やっと犯人に捕まえたと思ったのに、こいつも白か......とほほほほ...ヒュー(風に木の葉が舞う)。気を取り戻して「では今日引き取りに参ります」と受話器を置いた。だが、私の心の中では「こいつと別れよう」「短い間だったが、もうお前との生活に疲れたんだ。お互いその方が人生を楽しく暮らせるじゃないか。な、解ってくれよ」と、もう決心が付いていた。 夕方。再びアステルプラザにて。NECのサービスから戻ったPHSカードと修理報告書を受け取る。「問題なし」と書かれた紙を見ながら「うーんどうしましょう」と小太り店長と相談してみた。 「やはりMACの方が...」とあっちの非を認めない方向で来たのだが、不都合の出方からして、ちょっと調べた所では「悪さの原因」は出てこないだろう。おそらく、一日平均10時間以上ネットに接続している熱い熱い過酷な状況に半年以上置かれてこそ「このPHSは悪さをしでかす」と思う。 そう、このPBはとっても熱いのだ(G4tiも熱いけど)。最初のPHSカードでさえ、常時不都合が出るまで半年使い続けた頃だ。こいつを、あと何ヶ月か使って「ほら悪かったでしょう」と言うには、恐らく初期化初期化に明け暮れないといけない。また、現在全く不都合の無い現状のMACを修理に出しても「問題なし」で帰って来る確率が高い(しかも時間が掛かる)。 やはり、一年で2回も動作不良を起こすPHSカードの耐久性に疑問が残る(元々ヘビーユーザー向けには作られていないのかも)と、言う訳で「では解約します」と最初っから決めていた言葉を発した。正直、もうこれ以上原因究明までに時間を費やすのは疲れるし、こいつが無いと快調な毎日なのだ。 本当は、このアステルの「PHS定額制ネット接続サービス」は凄く魅力だ。四国以外では北陸と北海道でしか行っていないので、他の地域の人は羨ましがっている(携帯接続のドットアイも定額制)サービスだ。カード型を止めてPHS携帯電話をUSBで繋ぐ方法もあるのだが、今時「33kbps」では遅すぎる(アステル関西はケイ・オプティコムと言う名で「PHS 64Kの常時接続サービス」を始めたらしい)。 それに、料金でも今はケーブルTVやADSLと比べてもあまり変わらない。変わらないどころか、フレッツISDNにした方が安いのだ(固定だけど)。で、ここはちょっと「フレッツISDN」に間借りして、それから考えようとアステルの解約当日に、NTTとプロバイダーへ「フレッツISDN」の申し込みをした。 |
だが、フレッツISDNって連絡するだけで「使用料金が、定額制になる」ただそれだけだと思っていたら、そんなに簡単な事では無かった。申し込みをして使えるまで最低一週間掛かるし、私の場合使っているTAのファームウェアとUSBドライバーのVr.アップをしないといけなかったのだ。 しかも、MAC OSは繋がっても1分程度で接続が切れる事がある。それは『現在、NTT「フレッツ・ISDN」サービス参加プロバイダの中のいくつかの ISP では認証方式として“PAP のみ”に対応しており、CHAP には対応していません。』と言う事が原因らしい(こう言う事って実際にやってみないと知らない話だった)。 一応、こちらのプロバイダーではCHAPにも対応しているので問題は無いが、本当にうまく繋がるのかちょっと心配。開通は今夜の午前0時からの予定である。 |
2001年5月14日 |
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連休前まで話を戻そう。 4月1日にバカな事を書いてアップしたその直後「HDに問題あり」でマイPBがクラッシュした。その後の事の顛末は、結局新しいHDの交換まで書いていたが、実はその続きがあった(あーあったとも)。 IBMの20GHD(2.5inc 9.5mm)に交換したものの、翌日から、またフリーズを起こす様になった。それは、漢字変換(ディスクアクセス)時に多かったので「もしや初期不良か?」と、思い背中に冷たい物を感じた。しかも、それは交換して翌々日にはもっと頻発して、とうとう立ち上げ直後に「?」マークが出てHDを認識しなくなったのだ。 「あー、神様どうして私ばかりいじめるのだ」もうこの辺りで勘弁して欲しい、この一ヶ月HDの初期化に明け暮れ、もうへとへとなのだ〜......! 結局、また標準のHDに戻して(もうHD交換作業はバッチリね)、その場をしのんだ。が、交換したものの、また「フリーズ」。これは、HDの問題では無い事は子供でも解る。じゃ何なのだ。増設メモリーも外して様子を見たが同じだ。となると「CPU・マザーボード」しか考えられない。結局、またアップルケア行きか......とほほほほ。 と、思っていた所、PCカードスロットにPHSカードが刺さっている事に気が付いた。「うん?」待てよ、このカード外した事があったか?そう言えば、最初に起こった時以来このカードを外した事が無かったのでは...........「う〜ん?」これか????? この様な不都合に見舞われたなら、まず第一に周辺機器を外してリスタート。これは基本です、基本中の「基本です!」ですが、これをしていなかったのでは?、と己(おのれ)の鈍感さにやっと気が付いた。だが、待てよ、今まで通信環境には全く不都合は無かった。PHSカードが悪いなら、接続出来ないとか、勝手に切れるとか、そう言うトラブルが第一でしょう。 なのに、「HDに問題あり」でOSが飛ぶのはお門違いでは?とは言うものの、これを疑ってみても間違いでは無いだろう(デバイスコントロールで繋がってるし)。と、PHSカードを抜いてリスタート..........「普通に立ち上がる」じゃ、もう一度刺してみよう........「フリーズ!!」 や、やっぱりこいつか?いやいや、待てよこの日記で「こいつが原因かも」と書いてことごとく裏切られて来た訳だから、今回もぬか喜びでまたまた恥じをさらす訳には行かない。今までの経験から、HD初期化から早くて2日、遅くても1週間以内にはクラッシュを経験している事だから、連休中は、このPHSなしでやってみよう。それでもし何も起こらなかったら、こいつが原因と言う事になる(厳密にはこいつが関わっている若しくは、主犯と言う事だ)。 そして長い長い連休は終わった..........。 |
............何も起こらない。いや、メチャ快適なのだ。「何かあったの?」と言うくらい、嵐の後の静けさ、平和な日々なのだ。「うん、犯人はこいつしかない」そうだ、こいつだ、こいつが悪党だ「助さん角さん、こらしめてやりなさい」と言う訳で、GW中は恐らく修理サービスは休みだろうから、連休最後の日曜日にあの「アステルプラザ」へ、この犯人とおぼしき物(ブツ)を持っていった。 また、いつもの「小太り店長」が応対に出て来たので「かくかくしかじかで、こうなってああなって、こいつが悪さをしていると思います」と一挙にまくしたてたら「では一応修理に出してみます」と来た。「ああ、そこのところをヨロシク!(永ちゃん風)」と凄んで店を後にしたのだ。その3日後、アステルプラザから1本の電話が入った「もしもし、修理に出されたPHSカードの件ですが.....」...........つづく。 |
2001年5月10日 |
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てな訳で、「EV-Aclass」と遭遇した時に撮影したDVを編集してみた。 実は、先日ビデオ編集ソフトとしては現在使っている「iMove」より高機能である「Final cut Pro」を格安で手に入れる事が出来た。ちょっと古いバージョンだが使えない事は無い。で、何か良い題材は無いかと思っていたら、この「EV-Aclass」と出会った訳だ。 丁度良い機会なので練習がてら、撮りたてのほやほやのまで湯気が出ているDVを早速PBに繋いでみた。操作はiMoveほど簡単ではないが、説明書を読みながらやったのだが.......うーん、うまくキャプチャーできない「あれれ、どうしてだろうか??」と格闘する事約1日。で、アップルのHPを読むと、私のDV(SONY TR5)はPBのFWとFinal cut Proの相性が悪く取り込めないと言うのだ(現在調査中(; ;)。 「ひえ〜」早く言ってよ、そんな重要な事。と思ったが、私のDVはFW(iLINK)付きの物としてはちょっと古い型だったので、最近のハード(と言うかソフト)にはうまく適合していない物も多いのだ。それで、もう一日考えた結果、一度「iMove」に取り込んだデータをFinal cut Proで開いてみる事にした。 「どうだ、うまく読めるか」.....なんとか成功。だが、再度Final cut Proで開いてみたらコマ落ちが激しくてどうも使えない(; ;)。よって、またiMoveでの編集となった。それと、夜間のせいか画質が良くない。ま、QTやreal plyerでのネット公開は元々画質が悪いので仕方がないのだが、音だけは一番良いレートでコンバートしているので、無音は感じてもらえるかも知れない。 編集って言っても、タイトルを入れたたげで特に凝った事はしていない。ただ、撮影場所が幹線道路沿いだった為、側を走る車やバイクの音ばかり聞こえて、EV-Aの音が聞こえない。と言うか元々聞こえない(^^;)。 もう一つ、ネット画像のプロトコールとして「windows media plyer」の存在も無視でき無きなった。今回それもやろうとしたのだが、時間的に間に合わなかった。現在公開している画像も含め、近々windows media plyerでも見られる様にしたいと思っているので気長に待って欲しいのだ。 根本的にネットで綺麗な画像を見ようとすると、どうしても高速の通信環境が必要となってくる。あー、早くADSLにしたいぞー。 |
左「走るEV-Aclss 編」は充電した「ツーアーメディア」と言う旅行会社の受付のお姉ちゃんが乗って走る画像です。右の「EV-Aclss 同乗編」は古澤さん運転でσ(^.^)が助手席に乗ってDVを手に持って撮りました。 それにしても今日は、もう広島なんですね。事故無い様無事に日本一周出来る事をお祈りいたします。 |
2001年5月9日 |
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そんな訳で、やっと「EV-Aclass」と巡り会えた。 既に午後5時頃から、ここ「メディアツーリスト」と言う旅行会社のエアコン・コンセント(200V)から充電を開始していたと言う。ドライバーである薄井さんと古澤さんへの挨拶もそこそこに、早速デジカメとDVを取り出して撮影に入った。 丁度、幹線道路沿いなので、会社帰りのサラリーマンとか、近所のおじさん達が興味津々で立ち止まったり、話を聞いたりしていた。質問の多くは「これどのくらい走るの」とか「充電はどのぐら時間がかかるの」とか、中には「先日テレビで見ましたよ」と言う近所のおばちゃんまでいた。 薄井さんも古澤さんも既に何度と無く説明して来たであろうと思われるが、疲れた表情はひとつも見せずに、沢山の人に話をしている。それにしても、4、5時間フル充電しても40〜50kmしか走れない事に、みなさん「それは大変だ」と言う感想を持っていた。でも、そこがこの旅の意義のある事なんだろうな。 私も、車の下まで覗き込んで説明を聞いていたが、ちょっと興奮状態だったので話は上の空。でもちゃんとビデオに収めているので、今それを見ながら「はは〜んなるほど」などと理解している。 午後7時過ぎ、辺りは薄暗くなり、とりあえず、そこまでで充電終了。その後、メディアツーリストのサポーターの方と受付の女性を交代で乗せて近所をぐるっと一週の試乗に出かけた(後部座席は荷物で一杯なので実質的には二人乗り)。それを見たσ(^.^)は「おお!」と驚きを声を上げた。音もなく、スルリっと走っていく姿は同じ形のAクラスでありながら「でんき自動車・未来の乗り物」って言う感じがしたのだ。 今日中には坂出(瀬戸大橋のたもと)辺りまで移動する予定なので、もう一人予定していたコンセントサポーターの所までは時間的に行けなくなった。その後「良かったら、少し乗って行きますか?」と私のAを薄井さんが、私が古澤さんの運転するEV-Aの助手席に乗って坂出の途中まで行く事になった(^^)/。 いよいよ、初めての電気自動車の体験である。ドアを閉め、シートベルトを締めて気が付くとニュルニュルと後ろへバックしていた。何だかニュートラルで坂道を下っていく感じだ。その後、窓を閉めて幹線道路へ出る。 スーと「...............................................................」無音である。 |
「こ、これがEV-Aの走りなのか」音のしない走るAクラスは異常な静けさだった。走っている時は、車内にある荷物の音と段差を越えた時のタイヤの音のみである。むしろ、私のDVの音とかカーナビの音の方が耳に付く不思議な感覚だ。 距離にして10kmぐらいだろうか、国道11号線に出た辺りで再度記念撮影となった。でも真っ暗だったので光量足らずのIXY-Dでは二台写らず(^^;)。最後にサポーターの記帳をしてお別れをした。 いやー良い経験だった。「同じAクラスでもEVと言うのはこんなに違うのだ」と、思ったと同時に今のAクラス10年10万キロ乗った後でEVにコンバートするのも現実的に思えてきた。あと8年、その頃は効率の良いバッテリーや充電器も開発されているかも知れないし、今現在もEVにコンバートする費用は、もう一台Aクラスを買うより安く済む。 床下の空間はそれまで取って置くのも悪くはないな.......。 |
2001年5月8日 |
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「ったくもー、休み明けの仕事は辛いな〜」 っと、重い体を引きずりながら早朝職場に着いた私は、おもむろにPBを開いてメールチェックと掲示板を見て回っていた。と、その時「日本EVクラブの2001年充電の旅」の掲示板を見ていると「5/7(月)は、鳴門市から香川県高松市へ走行する予定です。」と、書かれていたのだ。(このプロジェクトをご存じで無い方はHP参照して下さい、早い話Aクラスの電気自動車がやって来るのです) 「5/7? うん、今日やんけ〜!」と、先ほどの気怠さは何処かへ吹っ飛び、ついでに仕事に対する労力も吹っ飛び(あ、これは前から吹っ飛んでいたか(^^;)。その日遭遇する事ができるかも知れない「EV-Aclass」の動向を追う事になった。 仕事も適当に、昼前に同HPをチェックすると、まだ鳴門にいる様だ。今日は来ないか?でも鳴門から高松まで距離はあるもののサポーターの数は少なく、「ひょっとしたら夕方には直接こちらに来るかも知れない」と、急に現実的になり、ちょっと興奮する。 いや、ドキドキしている場合では無い。「どうぞこちらへお立ち寄り下さい」と掲示板に「お誘い書き込み」をしなくてはならない。以前から「ひょっとしたら来るかも」と思いサポーター登録(非公開)だけはしておいたが、ここは積極的に誘わないと通り過ぎてしまうかも知れない。で、「夕食は美味しいさぬきうどんをご馳走します」とエサを置いてみた。これで来てくれるかな? いや待てよ、もし「EV-Aclass」が来たら私が生きている内に二度と見ることは出来ないかも知れない。そう思ったら、ここは是非ビデオに撮っておかなければイケナイ、そして「それをネットで公開するのがAクラスファンの使命だ」と思った私は昼休みに家までDVを取りに帰った。 準備播但線である。後は連絡を待つだけだ。仕事もそぞろにメールチェックと携帯をポケットに入れて連絡を待った。 午後四時過ぎだろうか、いきなり携帯がブルブルと震えだした「誰だ?来たか!」と電話に出ると「もしもしこちらは2001年充電の旅の薄井です」と連絡が入った。だが予定では高松市内の「ツーアーメディア」と言う旅行会社で充電を行う予定なので、もし良かったらお会いしませんかと言う内容だった。 西から来るにはσ(^.^)の家が近いが、今日中には坂出(瀬戸大橋のたもと)まで行く予定ならば、そちらで充電する方が時間的には都合が良いだろう。で、合流場所の「ツーアーメディア」付近の地図をコピーして、仕事が終わると同時に駐車場を出た。 いよいよ「EV-Aclass」と会えるのか、そう思うと何だかドキドキしてくる。何だろうこの興奮は、まるで初めてのデートの時の様だ。だが、目的の「ツーアーメディア」が見つからない、「この辺りだと思うが...」と辺りをぐるぐる回ったが、何処にも「EV-Aclass」は見あたらなかった.......。 |
仕方ないので、その旅行会社に電話して場所を再確認した(しかも2回も(^^;)。「えーとJOMOの前ですよね....」JOMO、JOMO......... 「あ、いたいた」そこには、バックドアを開けて充電中の「EV-Aclass」が居たのだ......ちょっと長くなったのでつづく。
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長い休みはどーするの。 と、言う事で実家へ帰省した翌日は「潮干狩り」へ行く事にした(またかい)。地元には潮干狩りスポットが幾つかあるのだが、既に連休初め頃に掘り尽くされている様子だった。 「せっかく行ったけど何も採れなかった」と言うのも貴重な家族サービスの休日を無駄にする事になるので、結局昨年も行った大串半島の、いわゆる「観光潮干狩り」に行く事にした(結構家族に気を使っているオヤジなのだ)。前回の成績は、1日頑張って手渡された網袋の一袋半(1kgちょっと)しか採れなかったので、今回はちゃんと干潮の時間を調べ万全の体制で望んだ(リベンジだ)。 時間は丁度お昼頃、近くのコンビニでおにぎりを買って一路大串半島を目指した。到着すると、昨年よりちょっと車は少ない。最終日だからなのか、長い連休は遠出する人が多いのか....「いや、これはチャンスかも知れない」そんな予感がした。 駐車場から、海岸まで約20分の下り坂を歩いて下りると、昨年同様、入場料(大人300円、子供200円)の料金を取られた。まだ人が少ないので早速、出そうな所を掘り出した。15分ぐらい経った頃だろうか、妻が「こっち!こっち!!」と力の入った声で呼ぶので「これはただ事ではない」と思って行ってみると、そこは貝が沢山埋まっている場所だった。 「あ、ここにも」「ほら、まただ」いや〜面白い様に取れる。昨年は、掘っても掘っても2〜3個しか出てこなかったのに、今回はバカ採れ、砂に手を入れただけで3〜4個は採れる。やったー金工を掘り当てたぞー(^^)/ ただ、周りの人たちはそんなに採れない様子で、私達家族の狂喜乱舞の声を聞きつけ、徐々ににじり寄って来ている。だが、採れるのは私達の所だけで、少し離れただけで全然採れない様子なのだ。なのにこちらはザクザク採れる。採りながら「これが、大判小判だったら」とか、バカな事を考える。でも、ちょっとお金持ちになった気分だ(悲しい比喩)。 で、1時間もしない内に、持ってきた2つのバケツはあさりで山盛り一杯になった。「だが、ここで問題が」お持ち帰りできるのは一人1kg、4人で4kgまでなのだ。が、しかし既にその量の3倍以上は採っている。そこで、小さいやつとか、色の悪いやつとかを捨てる事にした。昨年は、小さな貝まで一つ残らず持って帰ったのに何という勿体ない行為なのか。 最初は、大きいのを一つずつ選んで網袋に入れていたが、途中からは「こんな柄は嫌」とか「落ちたやつは拾わない」とか段々と適当になって来た。ふと、もし宝くじが当たったら、こんな感じで小銭は粗末に扱うのかも、とか思ったが現実は「貝」だった。 |
入場券には近くの「讃岐ワイナリー」での試飲券も入っていたので、帰りにそこへ寄って美味しいワインを飲んだ。 翌日は、あさりご飯に、あさりのみそ汁、バター炒めと、あさりずくしだった。だが、採ってきた量が半端では無かったので、食べきれない。採るのは楽しいが、食べる事まで考えていなかったのだ。 |
2001年5月2日 |
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何でですかねー、絶対に見にくいと思うこのミラー。小さいけれども視野を広く見せようと言う変なアイデア。 以前は撥水性のフィルムをこの大きさに合わせて貼っている人もいたが、最近ではAクラス用のワイドミラーも発売され、これを貼っている人も多いとか。でも、下にヒーターがあるから、ある日「ポロリ」と外れないかちょっと心配?。 明日から連休後半戦、ではまた来週(^^)/ |
2001年5月1日 |
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「ゴールデンウィーク」である。 なのに天気は悪い。ま、別に予定は無かったので、ピーカンの天気だと何処かへ出掛けないと損をした気分になる。だから「丁度良かったのか?」。しかし上の子供は春のリーグ戦((野球)とかで連休中は毎日試合があるそうだ。 「雨だから中止だと思ったら、やるんだもの」と、夕方には妻と子供が帰って来た。当然、夕食の支度は無い................。そして、また「牛丼」である。断っておくが、この日記によく登場する牛丼だが、そんなに毎日食べている訳では無い。だが、「今日は何にする?」と聞かれて迷っていたら、子供達は必ず「肉」とか言い出す。しかも、上の子供が先日からまた「牛丼中毒」に陥っており、事あるごとに「牛丼」を連発していたのだ。 「また牛丼か」と思ったが、他に欲しい物は浮かばず、妻の「今から作るのは嫌」と言う熱い視線に根負けして結局また「牛丼」となってしまった。そして買いに行くのは何時も決まってσ(^^)である。 休みの日の夕方、しかも雨が降っている為、当然道は混んでいる。 しかも何処かへ出掛けた家族連れは「これから帰って夕食作るのは嫌よ何処かで食べて帰りましょうよ」と言う事になる。当然不景気だし、時間も無いから「牛丼でいいか」って事になる。だから何時もは1台ぐらい空いている駐車場も満杯状態だった。入り口でじっと待つ事約10分、やっと一人出て来たと思ったら、駐車中の車の中で食べている。(だったら店内で食べろよ) それから待つ事約5分、やっと一台空いて止める事が出来た。だが、こう言う日は「お持ち帰り」も多い。しかも普段はこんな所で食べた事のない「吉野家素人客」が多いものだから「まどろっこしい注文」が多く、それを相手にするのがアルバイト店員だと、余計に時間が掛かって、なかなか順番が来ない。 前の客は、どうも肉をご飯にかけた状態だと「ご飯に汁がしみ入る」のが嫌らしい。「一体何処まで帰って食べるのやら」と思っていたが、意図している事がなかなか店員に伝わらない。結局、別々の容器に入れて持って帰る事で決着。その間約5分。 それで、やっとσ(^^)の順番がやって来た。で、注文に発した言葉は.......... だけである。当然メニューなんかは見ないし、支払う利用金も既に手に握っている。もう、ここまで簡潔に注文が出来ると一目置かれる(か?)。一瞬「え!?」と思ったアルバイト店員は一呼吸置いて「大盛り1並3」と厨房に向かって叫んでいた。 後ろにも待っている客が並んでいるのだから「さっさと注文とりなよ」とσ(^^)は後ろへ下がって待つことにした。しかし、「吉野家つう」って言うのも何か「むなしい」............。 |
一人でAに牛丼弁当を持って帰るコツは、助手席最後方に平坦に並べる事である。これだとコーナリングで中の具が偏る事は無い。って、こんな知恵が付くなんて、やっぱり「むなしい」....。 PS 例のauto-ASCII24の「吉野屋」タイプミスの件は、その日の内に「訂正しました」メールが編集長直々に届きました。 |
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